2021年7月31日土曜日

    北越雪譜 漁夫の溺死

北越雪譜には、越後という土地柄、鮭の話題もあります。その中で印象的なのは、漁夫の溺死、という話です。

千曲川(江戸時代は信濃川とは呼ばなかった)に鮭が遡上するのですが、高い崖のきわの流れが、鮭の通り道になっていたようです。そこの鮭を捕獲するために、崖の上からゴンドラ状の柵を縄で吊るし、その柵に乗って、柄のついたすくい網で、鮭を捕っていたのですが。

仲の良い夫婦におきた悲劇です。

     現代語訳 北越雪譜 監修 高橋 実

             訳  荒木 常能


   北越雪譜 越後湯沢 鈴木牧之 編選

        江戸   京山人百樹 冊定

   

   北越雪譜 初編巻の下


   搔網

 「カキアミ」とは掬網(すくいだま)である。鮏(注、サケのこと。本来のサケの漢字は、この鮏の字が正しく、鮭は誤用したものが定着してしまったと鈴木牧之さんは解説している。こだわりがあるらしく、最後まで鮏の字を使っている。ちなみに鮭は河豚フグのことだったらしい)をすくい取ることをいう。その掬い網の作り方は、又のある木の枝を曲げ、飯櫃(いいびつ)のような形にして、これに袋のような網をつけ、長い柄をつけてすくいやすいようにする。川岸の切り立ったところに沿って鮏は上るので、岸に体がようやく上がるような棚を作り、ここで腰に魚槌(なづち)をさし、鮏を搔網で探ってすくい捕るのである。岸が絶壁になっているところでは、木の根に藤縄で括って棚を吊り、ここで搔網することも稀にある。幾尋とも分からぬ深い淵の上にこの棚を吊ってここに上がり、一本の縄に命を託してこの仕事をすることを恐ろしいと思わないのは、この仕事に慣れたからであろう。




   漁夫の溺死

 ある村に(不祥事なので、詳しくは書かない)、夫婦で母の面倒を見ながら、五つと三つになる男の子と女の子を持っている百姓がいた。毎年、鮏の時期になるとその漁をして収入の足しにしていた。この辺りの川は岸が切り立っているため、村の者は各自で岸に棚を作り、カキアミをしていた。

 絶壁のところに棚を作る者もないせいか、鮏もよく集るので、この男はここに棚を吊り下ろし、一本の綱を命綱として鮏を捕っていた。十月ころになって雪の降る日には鮏も多く捕りやすいので、ある日のこと、降る雪をものともせずに簑笠で身を固めて朝から棚にいて、鮏を捕っていた。畚(ふご)に溜まったときは、畚にも縄をつけ、まず棚を吊った綱で絶壁を登り、畚を引き上げていた。綱にすがって登り降りするのにも慣れて、猿のようであった。食事のときにも登った。この日も暮れたが、雪は降り止まず荒れていた。荒れた日の鮏は捕りやすくなるので、また棚に行こうというのを、母や妻がとめたが耳を貸さずに松明を用意して棚に来た。果たしてカキアミするとたくさんの鮏が捕れた。謡曲の『鵜飼』に謡われているように、「罪も報いも、また来世の因果も忘れて」熱中して、時が過ぎていった。

 妻は、母が布団に入り子供も寝かせつけたので、この雪の中で夫はきっと凍えているだろう。迎えに行って連れて帰ろうと、蓑を着て蓑帽子を被り、松明を照らし、もう二本の松明を腰にさし、カキアミの場所にきて松明をさしかざしてのぞいた。そして、はるか下の夫に、「寒いでしょう。もう夜も更けました。やめて帰りませんか。あたたかいご飯もでき、酒も買っておきました。松明もなくなったでしょうから、もう帰りましょう。この雪でカンジキも必要になりました。それも持ってきました」。この言葉も西からの強い風雪のためによく伝わらず、なおも声を振り絞っていえばようやく夫も気がつき、「喜んでくれ、鮏は大漁だ。あしたはあつまってうまい酒を飲もう。もう少し捕っていくから、お前はさきに帰れ」という。それならば松明をここに置こうと点けたまま、棚を吊っている木の又にはさみ、別の松明に火を移して妻は家に戻った。これが、夫婦のこの世の別れになったのである。

 妻は家に帰り、炉に薪を入れ、温かい食事を食べさせようといろいろ用意して待っていたが、なかなか帰らない。待ちくたびれて再びカキアミのところにきたところ、はさんでおいた松明が見えない。持っている松明をかざして下を見ても光はよく届かず、夫の姿もはっきりしない。声を限りに夫を呼んでも答えがない。棚にいないのだろうか、それにしてもおかしいと、心を落ち着かせて松明を照らして、崖から登った跡でもあるだろうかとあたりを見ると、先程木の又にはさんでおいた松明が燃え落ちている。これに気づいて、もってきたたいまつを照らして、なおしっかり見ると、棚を吊っておく綱が焼け残っている。これを見た瞬間に胸が迫り、「松明がここに焼け落ちて綱を焼き切り、棚が落ちて夫は深い水の中に沈んでしまったことは間違いない。たとえ泳ぎを知っていたとしても、荒れた真っ暗な夜中に、流れの急な川に落ちれば手足が凍えてしまって助かることはないだろう。どうしよう、どうしたらよいのか、姑に言い訳がたたないではないか」と涙を降らすように泣いて、「私も一緒に死のう...」と松明を川に投げ込み、身を投げようとした。しかし、また考え直し、「私が死んだら、あとに残された老いた母さまと幼い子供たちを養うものもいない。手をつないで、路上で物乞いするしかないでしょう。死ぬに死ねない身になってしまいました。許してください、お前さま」と雪に伏し、焼け残った綱にすがって声を上げて泣いたのである。

 こうしてもいられず、泣く泣く焼け残りの綱をその証拠に持って、暗い夜道を松明もなく吹雪に吹かれながら、涙も凍るかのように立ち帰った。夫の死骸も見つからなかったと、その村近くの友人が、近頃あった話として、先年話してくれた。


  畚 捕った魚を入れておくざる。びくのこと。


  注 網(あみ) 綱(つな) よく似た小さい活字は混同しやすいです。

2021年7月30日金曜日

 北越雪譜 雪中の虫

鈴木牧之の北越雪譜には、冬の雪景色の渓流で羽化する黒い小さなカワゲラやユスリカについても書かれています。フライ用語なら、小さなストーンフライやミッジです。

江戸時代は虫というものを、現代人の昆虫というよりも、もっと広く定義していたようです。見えないが何かが、病気、腐蝕、劣化の原因になっていることまでは理解していたようで、その原因を目に見えないレベルの極小の虫によるものと考えたようです。現代人だって、なにかの病気になった原因が、ウイルス、病原菌、細胞の変異など、明確な答えは科学や医療の進歩とともに変わるので、専門家でなければ、「虫」でも良いのかもしれません。

それにしても鈴木牧之さんの中国の書物やオランダの学説など、博学さと探究心がすごいです。


     現代語訳 北越雪譜 監修 高橋 実

              訳  荒木 常能 野島出版


    北越雪譜 越後湯沢 鈴木牧之 編選

         江戸   京山人百樹 冊定


   北越雪譜初編巻の上


   雪中の虫


 唐土の蜀の峨眉山には夏も雪が積もっていて、その雪の中に雪蛆(せつじょ)という虫がいるということが『山海経』(唐土の書物)に書いてある。この話は本当である。越後の雪中にも雪蛆がいる。この虫は、早春のころに雪中に生まれ、雪が消えると虫もいなくなる。生死を雪とともにするのである。辞書を見て考えるに、「蛆」は”腐中の蝿”とあるので、いわゆるウジである。「䖧(たつ)」は字は似ているがサソリの類をいい、人を刺すとすれば蜂の類であろう。したがって、雪中の虫は「蛆」と書くべきである。だとすれば、雪蛆は雪中の蛆蝿である。木火土金水の諸元素からは、すべて虫が生じる。木の虫、土の虫、水の虫はいつも見ているので珍しくはない。蝿は灰から生じるが、もともと灰は火の燃えたあとの粉である。だから、蝿は火の虫である。蝿を殺してその形があれば、灰の中におくと生き返る。また、虱(しらみ)は人の熱から生じる。熱は火である。火から生じた虫だから、蝿も虱も温かいところを好む。金属の中の虫は、肉眼では見えない埃のような虫だから、人間には知られていない。銅や鉄が腐ってくる最初に虫が生まれるので、その所の色が変わるのである。生じた錆をよく拭いておくと、虫を殺すので腐らなくなる。錆びるのは腐ってくるはじめである。錆の中には必ず虫がいる。肉眼で見えないから人は知らないだけである。(これは、オランダ人の説である)。金属の中でさえ虫がいるのに、雪中に虫がいない訳はない。しかし、いつもいるとは限らないから、珍しいこと、不思議なこととして唐土の書物にも記してある。私の住む越後の雪蛆は、蚊のように小さい。この虫は二種類で、一つは羽があって飛び、一つは羽があるが、これを使わず這い歩く。どちらも足は六本で、色は蝿のように淡いが、一つは黒い。住むところは蚊と同じく町中や野である。しかし、人を刺すことはない。虫メガネで見たところを図にしておくので、学者の感想を聞きたい。




 峨眉山 中国四川省にある山で、標高三〇九九メートル。四川省は三国時代の蜀の地。


 雪蛆 峨眉山に住む雪蚕のこと。長さ十五センチほどで、甘美な味がするという。


 『山海経』 各地の山や海の動植物、怪異などを記した、中国古代の書物。


 越後の雪蛆 一種はユスリカと考えられる。幼虫時代は渓流ですごし、サナギは流れの中で羽化し、雪上で交尾して水面で産卵する。もう一種は、フタトゲクロカワゲラのようなもので、ユスリカと似たような成長を遂げる。(插絵解説図参照)



2021年7月29日木曜日

 北越雪譜とカディスのスーパーハッチ

江戸時代の北越雪譜という紀行文学。

越後の山間部の暮らしを、鈴木牧之さんという人が、旅をしたり、地元に伝わる話などをまとめた力作です。北越雪譜のほかに、秋山記行という越後と信州の隔絶された山間部の紀行文が有名です。


北越雪譜の中に、渋海川という川で、ヒゲナガのスーパーハッチが見られる話があります。図では、大勢の人が、桜の花見でもするように、河原に集まり、宴会などをしています。


現代語訳 北越雪譜 鈴木牧之

          監修 高橋 実

          訳  荒木 常能


  

北越雪譜初編巻の下  越後湯沢 鈴木牧之 編選

           江戸   京山人百樹冊定


   渋海川のサカベットウ


 越後では、蝶を「ベットウ」という。渋海川の流域では、「サカベットウ」という。いろいろな虫が羽化して蝶になるが、大きいものを蝶といい、小さいものを蛾という(『本草綱目』)。その種類は大変多い。草や花が蝶に化すことは『本草綱目』に書いてある。蝶のやまとことばを「カワヒラコ」というのは『新撰字鏡』にあるが、サカベットウという呼び名については考証していない。

さて、前に述べた渋海川の春の彼岸のころ、数百万の白い蝶が水面から二、三尺上、高さ一丈くらいになり、両岸までいっぱいで羽が触れ合うほどの大群となって、川下から川上へ飛んでいく。そのありさまを花吹雪と見るのはまだ言い足りない。数里の流れに霞がかかったように、朝から夕方まですべて川上に続いて果てもなく、川の水も見えないほどである。この蝶が、日が暮れようとするとき水面に落ちて流れ下る。その情景は、まるで白い布を流しているようである。

 この蝶は灯火に飛んでくる蛾くらいの大きさで、白い。越後には、大小の河川が何本も流れているが、この渋海川だけ毎年この情景が見られるのは珍しいことであった。しかし、天明の洪水から後は、これがなくなってしまった。

 『本草綱目』を参考にして考えたが、「石蚕(せきさん)」、またの名を「沙虱(すなしらみ)」というものが、谷川の石について繭をつくり、春夏に羽化して小さい蛾となり、水上を飛ぶという。このサカベットウは、渋海川の石蚕であろう。その卵が洪水で流れてしまったために、絶えてしまったのである。ほかの地にも石蚕が生まれる川があれば、この蝶がいるだろうが、私にはわからない。

 私はこの蝶を見たことがないので、若いころ渋海川のほとりから嫁いできた老婦人に尋ね、その老婦人の話のままに記した。


 『本草綱目』 「本草」とは、薬用になる動鉱植物の称で、明の李時珍が約千九百種の本草について解説をつけた書。一五九六年刊。


 『新撰字鏡』 昌住の著した漢和字書。平安時代の寛平のころできる。その虫部に、「蝶、加波比良古」とある。


 石蚕 トビケラ。蛾に近似するが鱗毛が多い。幼虫は水中にいて水草や砂で巣を作る。成虫は水辺にすみ夜行性。


 渋海川 東頸城郡松之山町三方岳を源に、中魚沼郡、刈羽郡、三島郡を流れ、長岡市域で信濃川に注ぐ。全長七〇.六キロの一級河川。長岡市はもと古志郡。