テンカラと修験者
日本でテンカラ釣りが広まったのは、1970年代。作家の山本素石さんが、信州の木曽地方にあった伝統漁法のテンカラを、釣り雑誌や本に紹介したことが始まりでした。わたしは、釣りキチ三平のコミックの、ヤマメが水面の毛鉤を反転して食いつくイラストが大好きでした。
テンカラ釣りは、素石さんが紹介する以前は、普通の日本人には全く接点の無い釣りで、今日の釣り出版物が「日本の伝統的な釣り方」と言うのは、ちょっと安易な気もします。「日本の隔絶された地域で伝承された」のほうが正確です。
理屈っぽくなってしまいました。今回のテーマと関係があるからです。
テンカラという言葉の語源は、いまだに謎です。ただ、テンカラが伝承された地域は、日光、木曽、そして静岡県の大井川上流。共通しているのは、修験者や山伏などの修行の地。彼らが袋小路のような山奥で食糧を確保するためのサバイバル術だったかもしれません。
(その8)で紹介した本には、続きがあります。
竿止めの術
ところで井川の村には、魚止め、竿止めという呪術があります。長男にしか伝えない厳しい掟があって、そう誰でもが知っているような呪術ではないといわれています。何回か望月繁福さんを訪ねて、その呪術の断片を聞きました。
「井川の村にはそれぞれ持ち山領分があって、川にも領分というものがあっただね。小河内の部落なら小河内川と東小河内川、田代は明神谷と信濃俣川なんかが、その領分だった。だから、よその者がその領分に入っても魚が釣れないように、術をかけてあったものだ。それが魚止め、竿止めの術だ。春の雪溶けの水を待って、谷を開ける術をする。モミジが川を流れるようになると、谷を閉じる術をやるだね。谷を開けてからも、よその者が竿を出しても一匹も釣れないように、もちろん術をかけておくわけだ」
~略~
「わたしも全部を知っているわけではないがよ、竿止めのかかった川では魚はまったく鉤を追わないだ。法印という人たちが主にその術をやった。呪文と印と切り紙があった。これは他人に教えてしまうと術でなくなるだで、教えるわけにはいかんがよ」
竿止めを破る術も。
「山暮らしの間には、どうしても他の領分に入らなくてはならないこともあるよ。それで、竿止めの術を破る術もあっただね。この術は一生に一度だけの術だといわれて、自分の命をはってかけるものだった。白と赤と青色の紙を魚型に切り出して、スズ竹にはさんで立てる。これを誰にも見られないようにやって、術をかけてやれば谷は開くだ。ただし、このことを他人にあばかれると命をなくすので、切り紙を誰にも見出せん場所へ隠しておくだ」
呪文と印はとうとう教えてもらえませんでしたが、白と赤と青色の切り紙は幣束状のものだったらしく、形はヤマメの型を切り出すらしい。
~略。
いまの日本人には、テンカラ釣りは娯楽です。昔の食糧事情の厳しい山間でテンカラの釣り人は、命がけでヤマメを釣っていたようです。
大井川も木曽川も、正式にはヤマメではなく、アマゴと呼ぶのが正しいはずです。しかし双方で、なぜか地元では、ヤマメと言います。
交通網の発達した現在でも、大井川上流と木曽はかなり遠いです。直線距離なら100㎞程度ですが、南アルプスと中央アルプスがあるため、車で行くにしても、かなり迂回して、1日コースのドライブになります。車や鉄道のない時代は、両者の交流は、無かったはずです。だけど、アマゴをヤマメと呼び、テンカラで釣る。
昔の山伏たちは、連なる山々を、毛細血管のようにルートを開拓していたと言われてます。里に降りることなく、長距離を移動していたようです。イギリスの協力で維新をした明治政府は、支配がむずかしい山岳信仰者たちを敵視して、修験道を禁止して弾圧したため、山伏たちの足跡は、遺跡や観光化した行事としてしか残っていません。
しかし、テンカラが日本で見直され、イギリスやアメリカのフライフィッシャーマンにも注目されるというのは、山の民の持っている感覚や精神が袋小路でなく、海や大陸を超えて、棒を片手に持って河原に立つ人間に伝わっているのだと思います。その感覚や精神を具体的に表現するのは、私のような普通の日本人にはできませんが。
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