2015年2月22日日曜日

テンカラ、開眼? その10

   テンカラ釣りと密教

まず、お願いです。
これから書くことは、ほとんど仮説だったり、妄想の産物です。また、即身仏と言って、ミイラ化した人間の写真も掲載します。
テンカラという日本の毛鉤釣りが、自然に発生したものか、それとも伝道者のような存在がいたのか。その仮説としてある人物を紹介するためです。もしも死骸の写真など見たくないという方は、このブログを閉じてください。


では、本題に入ります。

その9で、テンカラ釣りの普及に、山伏、行者、聖、など山岳信仰の修験者が係わっていたのでは、と書きました。弘法大師空海を祖とする彼らは、ただ山奥で仏教信仰と自然崇拝や木喰修行だけをしていたわけでなく、庶民の暮らしを助けるために、農業指導や井戸掘りをしたり、医学を教えたり、鉱山開発や温泉などの産業振興をしていました。博識な学者のようなイメージを持つかもしれませんが、実際にはいろいろな職業の人々が信仰のために集まることで、高次元な能力を持った集団が出来上がったようです。優秀だけど、実社会であまりうまくやっていけなかったり、何らかの事情で、世間から逃げ出してきた男たちで構成されて、彼らの知恵や行動力が、生活に困窮する庶民には、ただ寺の中で経文を唱えるだけの僧侶よりは、はるかにありがたい超能力者のようだったと思います。

山形県の出羽三山に、湯殿山という霊場があります。
200年前、江戸時代の後期、ここで修行を積んだ「鉄門海(テツモンカイ tetumonkai)」という男がいました。土木工事の労働者でしたが、女のことで武士とケンカをして殺してしまい、逃げるために山伏修行で身を隠したのです。
その後、彼は困難に直面した民衆のために、伝染病の山村で祈祷したり、医術を教えたり、1万人ものボランティアを集めて、港と城下町の間の険しい山に、荷物運搬用の道路を作ったりなどの功績がありました。
またかなり変わり者で、昔の彼女が会いに来ると、「おまえの欲しいのはコレだろう」と自分のキンタマを切り取って渡したり、江戸で悪質な眼病が流行すると、自分の左眼を抜き取って祈願したそうです。

彼は収入の少ない海の漁師たちに、蛸(タコ)釣りの仕掛けを教えたそうです。テンヤ鉤や餌木の鉤のようなもので、蛸が餌に抱きつくと、鉤が引っかかるシステムです。現代でも、山形県では蛸釣り漁で使われているとのことです。


漁師たちはこの鉤や仕掛けを、感謝の意味をこめて、テツモンカイと呼ぶそうです。
鉄門海は筏流しの仕事もしていたようですが、海の漁について専門家だったかは不明です。ただ、出羽三山には日本中から修験者が集まっていたので、彼の弟子や仲間に漁師がいて、地元の漁民が初めて目にする釣りかたを、教えてくれたかもしれません。
鉄門海は山形県だけでなく、北日本の各地を修行しながら、旅をしたとのことです。その時に魚の生態や漁に詳しい弟子が、旅先の川で地元の川漁師などに、短い竹竿と馬の尻尾の糸に毛鉤を結んで、岩魚や山女魚を釣る方法を伝授したのではないでしょうか。
tetumonkaiとtenkara 。言葉の響きもちょっと似ています。里の人々が、「鉄門海らが教えてくれた釣りかた」が、訛ったり変化して、テンカラになったのでは。
ちなみに、山形県の隣の新潟県では、鮭釣り用のイカリ型の引っ掛け鉤を「テンカラ」と呼びます。これも鉄門海らが伝授したのではと思ってしまいます。

鉄門海は多くの庶民に慕われました。62歳で風邪が原因で亡くなりましたが、遺体は彼の希望もあり、乾燥保存して即身仏として、信仰の対象になりました。今も山形県の注連寺に行けば、対面することができます。

世を捨てたのか、世から捨てられたのか。そんな無用者の男たちが、山岳信仰を経由して、再び世のため、他人のために生きた。鉄門海は歴史の片隅にかろうじて残っているが、名も無き弟子や仲間たちはどんな一生を送って、どんな最期を迎えたのか。
きっと、粗末な竹竿や簡素な毛鉤に、彼らの思いや魂が詰っている。


2月後半になり、解禁シーズンになりました。若い頃は、寒さなど気にせず、仕事をサボってでも、あちこちの川に出掛けましたが、いまはまったく気力がありません。釣りをしないと禁断症状を覚えるほどだったのに。たんにタチの悪い怠け者になりました。とてもじゃないけど、鉄門海たちのようには、生きられない。

鉄門海の生い立ちや写真は、唐木順三全集(筑摩書房)、日本のミイラ仏 松本昭(ロッコウブックス)、NHK番組即身仏 東北に息づく信仰の謎 を参考資料にしました。



2015年2月2日月曜日

テンカラ、開眼? その9

  テンカラと修験者


 日本でテンカラ釣りが広まったのは、1970年代。作家の山本素石さんが、信州の木曽地方にあった伝統漁法のテンカラを、釣り雑誌や本に紹介したことが始まりでした。わたしは、釣りキチ三平のコミックの、ヤマメが水面の毛鉤を反転して食いつくイラストが大好きでした。

テンカラ釣りは、素石さんが紹介する以前は、普通の日本人には全く接点の無い釣りで、今日の釣り出版物が「日本の伝統的な釣り方」と言うのは、ちょっと安易な気もします。「日本の隔絶された地域で伝承された」のほうが正確です。
理屈っぽくなってしまいました。今回のテーマと関係があるからです。

テンカラという言葉の語源は、いまだに謎です。ただ、テンカラが伝承された地域は、日光、木曽、そして静岡県の大井川上流。共通しているのは、修験者や山伏などの修行の地。彼らが袋小路のような山奥で食糧を確保するためのサバイバル術だったかもしれません。
(その8)で紹介した本には、続きがあります。


竿止めの術
ところで井川の村には、魚止め、竿止めという呪術があります。長男にしか伝えない厳しい掟があって、そう誰でもが知っているような呪術ではないといわれています。何回か望月繁福さんを訪ねて、その呪術の断片を聞きました。
「井川の村にはそれぞれ持ち山領分があって、川にも領分というものがあっただね。小河内の部落なら小河内川と東小河内川、田代は明神谷と信濃俣川なんかが、その領分だった。だから、よその者がその領分に入っても魚が釣れないように、術をかけてあったものだ。それが魚止め、竿止めの術だ。春の雪溶けの水を待って、谷を開ける術をする。モミジが川を流れるようになると、谷を閉じる術をやるだね。谷を開けてからも、よその者が竿を出しても一匹も釣れないように、もちろん術をかけておくわけだ」
~略~
「わたしも全部を知っているわけではないがよ、竿止めのかかった川では魚はまったく鉤を追わないだ。法印という人たちが主にその術をやった。呪文と印と切り紙があった。これは他人に教えてしまうと術でなくなるだで、教えるわけにはいかんがよ」

竿止めを破る術も。
「山暮らしの間には、どうしても他の領分に入らなくてはならないこともあるよ。それで、竿止めの術を破る術もあっただね。この術は一生に一度だけの術だといわれて、自分の命をはってかけるものだった。白と赤と青色の紙を魚型に切り出して、スズ竹にはさんで立てる。これを誰にも見られないようにやって、術をかけてやれば谷は開くだ。ただし、このことを他人にあばかれると命をなくすので、切り紙を誰にも見出せん場所へ隠しておくだ」
呪文と印はとうとう教えてもらえませんでしたが、白と赤と青色の切り紙は幣束状のものだったらしく、形はヤマメの型を切り出すらしい。
~略。

いまの日本人には、テンカラ釣りは娯楽です。昔の食糧事情の厳しい山間でテンカラの釣り人は、命がけでヤマメを釣っていたようです。
大井川も木曽川も、正式にはヤマメではなく、アマゴと呼ぶのが正しいはずです。しかし双方で、なぜか地元では、ヤマメと言います。

交通網の発達した現在でも、大井川上流と木曽はかなり遠いです。直線距離なら100㎞程度ですが、南アルプスと中央アルプスがあるため、車で行くにしても、かなり迂回して、1日コースのドライブになります。車や鉄道のない時代は、両者の交流は、無かったはずです。だけど、アマゴをヤマメと呼び、テンカラで釣る。
昔の山伏たちは、連なる山々を、毛細血管のようにルートを開拓していたと言われてます。里に降りることなく、長距離を移動していたようです。イギリスの協力で維新をした明治政府は、支配がむずかしい山岳信仰者たちを敵視して、修験道を禁止して弾圧したため、山伏たちの足跡は、遺跡や観光化した行事としてしか残っていません。
しかし、テンカラが日本で見直され、イギリスやアメリカのフライフィッシャーマンにも注目されるというのは、山の民の持っている感覚や精神が袋小路でなく、海や大陸を超えて、棒を片手に持って河原に立つ人間に伝わっているのだと思います。その感覚や精神を具体的に表現するのは、私のような普通の日本人にはできませんが。